カウンセラー日記

233

心のことを仕事にしているけれど

やっぱり難しいなって思います。

何が難しいか。。。

当たり前ですが、人は一人一人違う生き物だからです。

 

今も母は健在ですが

結局母と分かり合おうということは諦めました。

諦めるというと、何か後悔とか相手を責める気持ちとか残りがちですが

散々私自身母とのことをワークしてきて、そして現実の母を見て、話をして

諦めたんですね。

 

そして残ったことは、それでも母を愛している自分という存在でした。

母に理解されたい、せつないほどの想いをパンパンに持っていましたから

母を心底嫌いになどなれないのです。

そういえば、友人に親なんか早く死んでくれたらいいと話している人がいましたが

大嫌いと言いつつ、お母さんから電話がかかってくるとすごく嬉しそうな表情しているんですね。

それを指摘したらめちゃ怒られましたが。

話ずれました。

 

大嫌いだけど大好き

 

今の私の母への想いです。とても満足しています。

 

実は私は父親とは5歳のときに別れています。

私は父親っ子でしたから、ずっとバリバリのファザコン街道まっしぐらでした。

パパみたいな人はどこかにいないかな?

そんな感じ(笑)

 

しかし、数年前に居場所が分かったのですが、意識に全くと言っていいほど登らない私がいました。

今なら「あーこれが防衛機制の否認」なんだと実感です。

きっと会いに行って受け入れられなかったらと考えるのも恐ろしかったのでしょうね。

なんだかそんな自分を今見つめて、「なんて健気なんだろう」って思います。自画自賛でごめんなさい。

 

なぜここまで分析できたのか

それは昨年末に父が亡くなったことがわかったからなんです。

ものすごいショックで、思いきり体調崩して次々病が襲ってきてね。

 

そしてそこから学んだことも多かった。

ファザコン解消です。

人は皆ひとりで生きていくのだと覚悟がついた、それは思考ではなく心から思ったようで

それまで時折襲ってきた「不安」という種が全く私を襲わなくなったんです。

 

その辺りのことはこちらに詳しく載っています。

https://www.facebook.com/notes/松戸-みゆき/ひとりに際して/1534617529957585/

 

これが根本だったのかって感じでした。

それまでも自分を愛する取り組みや自分を癒す取り組みを数多くやってきたんだけど極め付けって感じでね。

 

何が言いたいのかというと

人は皆ひとりってことなんです。

どんなにわかりあいたい、分かり合えたつもりでも

結局のところはわかりあえないんだってね

 

いや、孤独に生きろでは全くない。

むしろひとりを実感するからこそ、他人に優しくできると思うのです。

相手を責めるって、自分の思うようにしたい気持ち、気持ちをわかってほしい切望が隠れているから。

しかし、ひとりに腹をくくれると

人生変わるんだなってつくづく感じています。

 

そして多くの人間関係の悩みは

こういうことが関わっていると思います。

 

しかしこれを読んで「そうか!ひとりを実感すればいいんだな」という風にはならないのが人の心。

切望して、あがいて、ほしいと言ってみて、やるだけのことはやったというある種の充実感も必須なんです。

 

簡単にはいかない。でも取り組む価値がある。

今は、そんな風に感じています。

 

 

 

 

 

 

今年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

今年はどんな年になるのでしょう?

私は昨年、大きな変化の年を迎えました。

変化の大きさに体がついていかず、体調を崩すこともあり、そんな自分に自分の有り様を見つめていました。

 

 

どういことかって?

 

 

その一つをお伝えしますと

それは考えてみれば今の社会の縮図だと思います。

例えばたとえ高熱であっても私は仕事は休めないです。

私は自営業。契約を反故すれば次の仕事は来ない立場です。

 

しかし

それは私だけではなく、多くの人が感じていることではないでしょうか?

それでも私はまだしたい仕事ですから、贅沢な悩みかもしれません。

でも仕方なくその仕事をしている時、どれほど虚しさを感じながら体調の悪さを押して仕事に向かうのか?

 

思うのです。

でもその「仕方なく」の立場を選んでいるのもその人なので

私が何かを言える立場ではありません。

冷たいでしょうか。そうかもしれません。

 

先ほど「グッド・ウイル・ハンティング」観ていました。

その映画ではセラピーの有り様を表現していました。

 

共感できるような単直なような

逆にセラピストとしてあのようにいられるのか

いろいろな思いが混走しました。

 

あなたはどんなセラピストに話をしたいですか?

私なら?

自分の経験に嘘なくクライエントの前にいていいのだとこの映画に教えてもらった気がします。

 

今年はもう少し自分に自由になれるかもしれないです。

あなたの有り様にしっかり向かい合える自分であろうと思います。

自分の有り様にしっかり向かい合えることが私の長所ですから今年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

 

 

 

今私の前にいた人が席に座った

ちょっとムカついた

 

なんでムカついたか、考えてみました

 

心の中に「本当なら私が座れたのに」って。

(あーちいさい)

でも座りたいって、混んでいればなおさら普通の感覚

 

さらに

なんで「私が?」って思ったのかな?と気持ちを探ってみた

 

前の人

乗ってきた時から

私を押すように、なんか圧がかかっていたことに気づいた

 

そこでこの気持ちの由来がわかった

 

「少し圧をかけられて小さなイライラが私の中に起こった」

「圧をかけられながら、周囲の人が下車するのを機にベスト立ち位置に移動」

「運良く座った」

 

つまり私は、効率よく立ち回れなかった自分に腹が立っていたのに

それを小さな圧をかけた前の人に責任を押し付けたわけだね

 

 

✳︎これは別に私のせこい体験を披露したいのではなく

こうした自分の心の動きに敏感になることのススメなんです

 

 

怒りや悲しみの根っこには

その出来事の前の小さな心の動きがあるものなのです

 

そこを見つめていくことは、大切なこと

無駄に感情に埋もれて1日を過ごさないためにもね

 

 

今日も良き日になりますように。

先日NHKで、発達障がいについての番組があったことで

ニッチな環境ではあっても
興味、関心の高まりを勝手に感じています

 

今年度は、それぞれの発達の凹凸を調べる心理検査の仕事も始まり

診断はしなくても
本人、親御さん、学校への影響を考えて
所見にはいつも頭を悩ませ、低血糖気味が続いています(ジョーク)

 

発達の凹凸については
それが差別につながることは、言語道断

人はどこまでもスペクトラムで
線引きは、神ではなく人間がしていることでしかない
そう思っています

と、同時に


その人の困りごとに寄り添う視点は発達障害有無に関わらず必要なことだと思うのです

何も困りごとなく、大人になれる人は少なく

生きる経験の浅い人ほど
方策が見つからないのは当たり前だから

また、

生まれつき凹凸の激しい人と
診断は決してイコールではなく
突き抜けて世界的に有名な凹凸の激しい方々を指差して
「発達障害だ」とは、言われないし言わない

 

診断は、その人の脳の個性と共に
環境がその人にとって大きな負荷となり
ストレスが一定以上になり、何らかしらの病的な症状を有してきたときに
つくものだと思うのです

 

しかし
日本は、発達障害を巡っては
マイナスの見方をする本人、環境もあれば

逆に、診断がつくことで
今までの生きづらさの理由がわかり
これからに希望を抱くこともあるので

上記のような思いを抱きつつ

診断をつける意味は
個別に変わってくるのだとも思っています

 

でも本来は違うと思う
日本はいつになったらそうなるのかな?

 

例えば(確かデンマークだった気がーうる覚え)小学校の勉強を一斉授業ではなく
それぞれが、それぞれのペースで学んでいくと読んだ

 

もちろん競争するから、伸びるという考えもあるだろう

 

しかし先日検査した子の中に、その子の伸びたい力を見た思いがしました

それは
大人からは、直してほしいところがあると見られていた子だが

自分に自然と負荷をかけていました

 

こういう些細な場面に

どこかに苦手さがあっても
自分に諦めずに努力する姿をみる思いです

 

周囲の人が
この子は直してほしいところがある子
とみるか

 

この子は自分の脳の特性はあっても
精一杯ある能力を、生かそうとしてる子
とみるかでは、

 

この子の将来は全く違うものになると思うのです

脳の機能を超えた人の力を信じたい

 

最近よく言われる多様性

 

それがどこかの看板ではなく

 

それぞれが自分自身も含めて
多様性の、一員なのだと気づいてほしい

 

私は、今の仕事でそのことを周囲に伝えたいし
カウンセリングの場面でも

 

「あなたはこの世の中でかけがえのない
取り替えのきかない唯一の人なんだ」
そう思い、接しています

 

今夜は「葛藤」ということを思っています
 
人の多くは、私も含めて様々な場面で葛藤します
 
こうありたい、あるべきという気持ちと
こうしかできない、こうだったという気持ち
 
 
自分に言い聞かすように。。
 
 
 
葛藤しないことがいいことではない
葛藤は一生懸命生きようとしている証だし
もしかしたら
自身の葛藤場面を見ないようにしているだけかもしれないから
 
 
 
そして葛藤している時は大概
相手があって
相手がいるからこそ、葛藤するとも言える
 
 
 
とても孤独な時には
葛藤できることにすら、羨望の眼差しがあったりする
そんなことも思う
 
 
 
しかし
葛藤している本人にしたら
それは紛れもなく辛いことに違いない
 
 
 
と、同時に
葛藤は、どちらかを否定することで成り立っているとも思う
 
 
 
そう考えると
どちらも否定しない道もあるのだと
ふと気付いたりする
 
 
 
 
自分の気持ちもありのままに大切にし
相手の有り様も否定しない道
 
 
最近、私は自分の気持ちを率直に相手に伝えるようにしている
そこに何らかの注釈を入れずに、素直な気持ちを伝えようとする
 
 
もちろん実際には言えない相手もいるわけだが
そんな相手にも
自分の思いは心で伝えている
「伝えない」という選択もあるが
やっぱり見ていると抑制が働いている気がする
全く自分自身がすっきりしているようには見えない
 
 
 
そして同時に
伝えても、相手の行動を抑制する訳ではないよね
あなたはあなたの気持ちを大切にすればいいだけ
だって相手が何を選ぼうとそれは別の問題でしょ?
 
 
 
(これってすごく大切なことだと思う)
 
 
 
家族とか、夫婦とか、恋人とか、子供とか
ごくごく身近であるほどに
自分の気持ちを率直に伝えることってできそうでできない
 
 
そこには相手への思いや、憎しみや、愛が混走するから
 
 
当たり前だけど
そこには愛があり、情があるから
 
 
人って複雑
そして人って単純
 
 
やっぱり自分が思っている以外にはならず
自分が思っていることを自身で否定すれば
自分が病気になったり、自分が苦しくなるだけだから
 
 
 
あなたの本心はどこにありますか?
 
 

WISC心理検査の仕事を今年からしています。

 

いくら学んでも学び足りない思い。

WISCの勉強をしていると
どの子も
いや、どの人も
自分のできる精一杯をしているということがよくわかる

子どものことでの例えなら
友人関係で、「わ〜っ!」と怒りで行動し、関係をこじらせてしまう理由の背景に
「相手の子がいった文言の全てを理解しきれない短期記憶の弱さがあり、さらに多動という反応の良さがあったりする」
だから、耳に入った単語に反応し、パッと手が出るわけです。

片付けられないといえば、良くないですがそういう方は視覚が有意に強く、様々な情報が目に入ってしまい、混乱し、分類が難しいのです。

また発達とは関係ない大人でも、ゆったりとしていて
他の人と同じペースでこなせない方とかいらっしゃいます。
そういう方は処理速度がのんびりしているわけであって
その人があえて遅くしてズルしようとしているわけではないのです。
その逆で言えば、スピードは速いけど間違いが多いというパターン。うっかりミスさえも、その人個人の責任ではなく、その人の持っている脳のつくりというか働き方に関係しているのです。

コツコツ頑張るタイプもいれば直感型もいる
マインドマップのように視覚的な働きかけが有効な方もいれば
耳から入れる方が優位な方もいる

そりゃぁ、すべてに満遍なくできる人がいいのだろうけど
案外そういう人は、どこか一つにものすごく秀でている人に劣等感抱いたりするから
話はややこしい。

でもね、どの人も自分の脳に忠実に頑張ってるんだなって思う。
だからこそ
まだ伸びしろが多い子供への接し方は気をつけて欲しい。

そしてすでに大人な人には、自分を責める無意味に気づいて欲しい。

そう言って自分に言い訳する私は、自分が大好き♡

「小さな種から芽が出て、自分でも自分を育て、周囲からも栄養をもらってここまできました。

まっすぐ伸びてきた時も、少し曲がった時もありながら今のあなたがいます。

そんな今の自分を書いてみてください」

 

この絵はこんな言葉とともに書いてもらった絵です。

 

この絵の解釈はしませんが

この方の思いを感じてもらえたらと思います。

 

この方の優しさがとてもよく表現されていますよね

 

 

 

カウンセラーに何ができるのか?
 
 
人は千差万別で、あるカウンセラーに合う人がいれば合わない人もいる。
 
合いすぎて苦しくなる人もいるし
合うことでホッとする人もいる。
 
全く合わなくて、腹が立ちわかってもらおうとつくろっていた仮面が自然と脱げちゃう人もいれば
腹立てて帰ってしまう人もいる。
 
それは人間同士の作用と
それぞれの自己理解の程度によるから
何が良い悪いとは言えない
 
 
カウンセリングは単なる世間話ではないし
本来、愚痴の放出場所とも違う
 
でも面白いのは愚痴でも話しているうちに
糸がほぐれるきっかけが出てきたりすること
もちろんそれを望んでいないければ口では「ほぐしたい」と言ってもほぐれてはこない
 
 
 
他人には普段話すことのない
できたらなかったことにしておきたいあれこれは
時として自分を苦しめ、追い詰めてくる
 
 
なかったことになどしておかないとばかりに
自分自身を責めてくる
 
 
そんな時
カウンセラーに話をすることで
少し救われたり
ようやく話をすることができた安堵感だったり
 
今まで考えもしなかった視点を提供してくれたりする
 
 
 
人は自分を信頼してくれる他人がいることで
今日を生きられる
 
カウンセラーとの関係は人生の一時ではあるけれど
支えになるのだと思う
 
 
そしていつか自分を信頼し
自分を杖に、周囲を助けにする術を身につけ
生きていくのだと思う
 
 
 
 
私もそんなカウンセラ−でいられるよう、研鑽を積んでいきたい
 
 
 

私自身、母とはかつて大きく確執がありました。

 

一番自分が支えて欲しかった時、母は、自己保身に走ったと思えたし


愛されたいと、強く願った相手だからこそ
満たされない辛さは
例えようもない底無しのものと感じた時もありました。

 

私もカウンセラーとして一人前になるために
母との事は自分なりに腑に落ちないといけないことだったし
ずっとワークで取り組んできたことでした。
仲間は当然ご存知ですが
母への思いのたけを叫ぶ中で、私自身が相当に癒されてきました。

愛憎が、関わる事は決して綺麗事ではうまくいかないのです。

こんな風に
自分の中の思いを表明し、頭ではなく腑に落ちる過程を繰り返す事で
私の中への母への思いが変わっていきました。

 

人と人との関係というのは例えるなら磁場のようにそれぞれの力関係の中で
一度できた関係はそれを変える事はなかなか大変といいます。

また、磁石を近づけた砂鉄の地面のように
そこでできた模様はそれぞれの立場やありようが複雑に絡み合うものです。

さらに、人はその環境に大きく影響されるといいますが

その磁場であり、砂鉄の模様であり、環境というのは
自分自身も大きく関与しているのだと改めて知りました。

私があれだけ嫌ったあのセリフ、あの言い回し
そこから透けて見えていたものは

母から、すっかり影を潜め
私が感じたのは、母なりの仕方で私を確かに愛してくれていたという事実でした。

さて
ここでどうしてこんなに母が変わったのだろう?と思う事は
誰もが思う当たり前のことですが

それは他でもない私自身が変わったことに違いありません

何年かかったことでしょう

母は、多分変わっていないのです。
でも以前の私の視線の端から感じさせる批判的な気持ち、母の言葉を保身というフィルターをかけて見ている私の思考
それらが母の言葉を、行動を作っていたのだと気づきます。

私の場合は、母との関係でしたが
夫婦間、親子間、職場内
様々な場でも自分が変わることで周囲が変わる可能性は大きいものと思います。

 

もちろんその中にはかつての私のように諦めるという選択もありですね。

 

手帳を整理していましたら

 

どこかで載っていた記事だと思うのですが

書き写した文章が出てきました。

 

改めて書き記しておこうと日記にしています。

 

皆さんは梅干しを見るとどうなりますか?

 

「梅干し」という言葉を口にしただけで、口中に唾がたまってくるのではないでしょうか。💦

それは【梅干し=酸っぱい】と条件づけられているのですね。

 

でもそれは梅干しに限りません。

 

カウンセリングの中で辛い話ばかり何度も話させるとその度にトラウマを強化することがあります。

辛い経験を何度も再体験することになりかねません。

 

また自分自身の思考の癖もそうです。

 

「自分はなんでいつもうまくできないんだ」「私はいつも不幸だ」

そういう言葉を繰り返し口にすることで、うまくいったことには焦点が当たらず、失敗したことばかりを自分で認識することになるからです。(本当はうまくいってることもあるものです)

 

同じように親が子供に「あんたは本当にダメだね」といつも言っていたら、その子どもの今後はその子の生きる力に任されたものとなるでしょう。

 

何もポジティブになれと言ってる訳ではありません。

極端にポジティブな言葉ばかりいう人は、逆にネガティブに意識があるからポジティブにあろうとするともいえます。

 

でも

人は誰でも幸せになりたいと思ってることに間違いはないと思っています。

自分を幸せにすることに少し貪欲であってもいいと思うのです。

 

そんなことを思いつつ

今年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

ひとりって良いものです


もちろんそこには「ひとりでない」という気持ちも必要です

ひとりというのは、外から見てひとりというのと
自身の内でひとりと感じている
両方があります

特に自身の内で感じているひとりは
心にあまり良い影響は与えないものです

結婚していても孤独を感じている人は沢山いますし
ひとりでも充実している人もいます

そこは色々な想いがあるわけですね

 

珈琲店で、カプチーノを飲みながら、ひとりの良さを今まさに感じています

カップを手で包み込んでカプチーノを飲んでいると
カップの温かみが、私の指に伝わってきます


最初は少し指が痛い感じから
徐々に温かみが指の内部にも広がっていきます

それを充分に感じながら
液体を口に含むと、口の中が一瞬で満たされていきます

「ゴックン」喉や気管支がカラカラになっていたので、液体が胃に落ちていく感覚をしっかり味わえます

また、手の温もりに意識を向けてから
飲む行為に戻っていく

これを繰り返していき
最後に、胃袋が満たされ
身体がゆるむ感覚を存分に味わい尽くしていく


私はよくこうして自分の内の感覚を少し俯瞰的に眺めます

自分を知る行為、自分を味わう行為は

自分というものの危うさを感じやすい現代人には、特に必要だと思っています。

 

 

これは、認知行動療法の手法の一つで、自分の感覚を味わい尽くすために
クライエントさんにもよくおすすめします

マインドフルに味わい、物事に向かう姿勢を身につけるための簡単で確実な方法です

こんな事は、誰かといたらできるものではありません

自分の内なる感覚に浸らなければ
微細な心理的、身体的変化に気づくことなどできません


自分の内を充実させることに繋がるマインドフルネス


とてもおすすめです。

 

人は経験の中で

思いもよらない事が起き、それはその出来事に翻弄され悩むわけです。

 

過去にはこんな事もありました。

娘から「お母さんが家を出たとき、私のせいで出ていったのではないかと、自分を責めたし、とても悩んだ」と。

もうその話しをした頃は

彼女も大人を理解できるようになっていましたから

事実を伝え、謝り、今の幸せを噛み締めたのですが

 

先日その話しをしたところ

「そんなこと言った?」全く記憶にないのです。

 

とても驚きました。

 

これが母である私に伝えられなかったら

今も確実に彼女の心にそれは残るでしょうし

悩みは、心に留めおくほどに大きくなっていくものなので

大きな悩みは私を含めた周囲への憎しみになっていったかもしれません。

 

その悩みも

伝えられたら、伝えてしまえば

あった事も忘れてしまうほどの些細なことになるのかと。

この娘が特別忘れっぽいとか、そんな憶測はなしです。

あなただって過去に経験した気になった出来事は、今も心に残っているでしょ。

心ってそういうものです。

 

トラウマ、PTSDという言葉をよく聞きます。

私は、多くの人が心の傷としてこういったものを抱えているのだと思っています。

さらにトラウマは、悪いイメージを持ちがちですが、その出来事に対して自分を守る為に

カラダが起こしている状態なのです。

 

私たちは通常、

感覚や記憶、認知、イメージなどを総合的に受けとめて脳の中で処理が行われています。

それがショックな出来事だと

受けとめきれずバラバラな状態でそこかしこに残っていくのです。

例えば、

あの時言われた言葉が幻聴のように

チャイムの音で震えがくるように

人の目が自分を非難してると感じてしまうように

 

それを統合していく一つがEMDRという手法だったり、

スキーマ療法だったりするのですね。

 

でも今日はそんなたいそうなお話ではなく

日常の中、もしかしたら娘にしたらトラウマになったかもしれない出来事でも

しっかり受けとめてあげることで

自分の人生の中では

もう記憶にないほどの小さな出来事になりうる事が人間の素晴らしさの一端だと思ったのです。

 

忘れられるって

ある意味とても大切な人に備わった要素なんですね。

【感情コントロールが苦手な子供の理解】
part2
 
最近、良い子が増えてる気がなんとなくするのですが。。。
 
 
話は戻り
カッとなりやすいコントロール苦手な子がいる一方で
過剰適応している良い子もいます
 
 
この二者は全く逆の現象だけど
表裏一体のもの
 
カッとなりやすい子も
怒りの感情を適正に受けとめてもらえてなかったところに原因があったのだけど
 
過剰適応の子も同じ
 
 
3歳の子が「ぼくだいじょうぶだよ。ガマンできるよ」
と言ったとして
 
本当に「だいじょうぶだったよ」とできたとして、
 
親はつい
「うちの子エライわ!思いやりのある子に育っているわ」と思いがちだけど
 
我が家は不幸か幸いかこういう子ではなかったけど
 
 
 
実はこういう子は過剰適応の子
 
この時何が起きてるのか。。
 
 
子どもってどんな親でも親を愛してるもの💓
 
 
生まれたばかりの雛が、初めて見たものを親と思ってどこまでもついていくという話がありますが
多分本能的に備わっているのだとおもう。
 
なので、親に愛されたいと強く強く願うものです。
 
ワガママいうのは、ワガママ言っても親は自分を見捨てないと思っているからできるのです。
 
(と、ここで発達の凹凸は脳の問題なので、発達の凹凸が強くあっての衝動性と安心はまた別のことです)
 
 
 
安心できないとワガママも言えない
言ったら愛されなくなってしまうかもしれないから。
 
 
でも当然だけど子どもにも感情はあって
大人よりコントロールは下手です。
当たり前です。経験値も低く、まだ大人に依存している存在ですから。
 
 
でも親に愛されたくて「だいじょうぶだよ」と言ってしまった時
自分の感情とどう折り合いをつけるか?
 
 
それをないものにするようです
いわゆる解離です
 
現代の子の中には解離を起こしている子が多いそうです
 
良い子が増えている所以でしょうか。。
 
 
 
大人が肯定する感情は、子どもの中でも受け入れられ
大人が否定する感情は解離して無き者にする
 
そうすると何が起きるか。。
 
感情は無き者にしても
自分の中でなくなりませんから
耐えて耐えて耐えられなくなると暴走をはじめます。
 
その最悪が殺人や自殺
(あくまで最悪ですから) 
 
 
自分の中に天使と悪魔がいると
その子は自分である悪魔をとても嫌いますから
自己肯定感を持てないのです
 
天使だけになれたら、ママから全て愛されますしね
 
 
解離をする癖がついてしまうと
いじめられていても
自ら好んでいじられにいってるように見える
とか
ヘラヘラして楽しそう
と、周囲には見えてしまう
 
 
何かの事件に巻き込まれた時、当事者の子が
それまで周囲の大人に気付かれない
むしろ良い子だった
などという話がある時、その子の中で起きていることの一端がようやく見えたような思いがしました
 
 
 
中学生に面談していても確かにいるんです
 
「僕が家にいる時は、ぼぼ祖母の介護してます」
「全然嫌でないです」
聞いた時は、何か違和感を感じました
 
だって自我が出てきて
存在そのものが尖ったナイフのような時期なのが正しい成長ですから
 
でも、誰も疑わず「良い子」と、周囲の大人は言います
それはそうでしょう
 
でも、ここまで書いてきたように
それはそうではないのです
 
 
大人になってから
漠然とした虚無感、生きるエネルギーの乏しさにつながらなければ良いなと思う
 
生きるエネルギーは、自分の中の感情、身体感覚から得られるものです
そこを活発に感じれば、大人社会の理不尽さに腹が立ったり
周囲の風潮に違和感感じて、不登校にならざるをえないこともある
でもそれは正しいことなんですよね
 
中には良い子のどこが悪いんだ
と、言われるかもしれません
 
良い子が悪いのではないのです
自分の感情をおざなりにして良い子を演じてしまうのが子どもの心配なところなわけです
 
大人だってお年寄りの介護は大変だし、イライラする事もあるし、自分の時間がなくなると悲しくもなる
それを感じながらも大人は、今まで世話になった人だし
とか、親だから当たり前とか折り合いつけるわけですね
 
でも子どもは折り合いつけていません
そこが問題なのです
 
 
もっとそういう子に目をかけないとと
今まで以上に思ったことでした。
【感情コントロールが苦手な子供の理解】
part1
 
こんな風に書くと
ADHDの子供たちを思い出すことも多いけれど。。
 
 
子育ての中で自分も反省なのだけど
プラスの出来事を子どもに言葉で返してあげることは
比較的されている親御さんは多いと思うのです
「嬉しかったね〜」「楽しかったよね〜」
 
 
 
でも地団駄踏んで怒っている2歳の子を前に
怒っている気持ちを汲んで
 
「怒ったね〜怒ったね〜、いっぱい怒ったね〜」などと言う親はあまりいません
 
ワガママ言ってると一刀両断はよくしてしまう
 
第一怒ってるときに、相手の子が存在していて、その親も目の前にいたりすると
親自身が
自分の中の良い子でいたい気持ちが刺激されて
良い親を演じようとします
 
そこで出る言葉は
自分の子に「我慢しなさい」とか「順番よ」などです
 
確かに言ってた。言ってました。(反省)
 
でも、2歳児(これ結構重要)に必要なのは
自分のどんな感情も外に出して良いんだという経験
出しても安心できる体験
 
泣いても笑っても親は受けとめてくれる
それを言葉として親が言葉で返してくれることで
この感情は「怒る」ということなんだ!と知っていく
 
それをしてもらってこない子が
小学校低学年で「お前殺すぞ」「死ねばいい!」などとゲームなどで知った言葉と自分の感情を擦り合わせてぴったりきたから、口にしている
周囲から見たらそれが暴言といわれる。
 
 
そんな図式。
 
そうなってしまったら
もうダメかというとそんな事はなくて
 
いくつになっても、その気持ちを感じさせて親や担任がしっかり受けとめて
そしてそれを言葉に変換していくことが大切
 
大人の私たちだって
 
周りのママさんを前に良い子でいようとするのは
同じようにされた、そんな親の姿を見て育ってきたから
 
「そうか!こういう時は自分より周りの目を大切にするんだ」
と、子どもの時のママが学び
自分の中の小さな悲しみ(お母さんは、私より周囲を大切にするんだ)と
適応の仕方(こうしないとお母さんに愛されない)
 
そうして、子ども心に自分より周囲を大切にすることを学んでいくもの
 
だから子ども第一にできないと自分を責めても
無意識のなせる技だから仕方ないことで
責めるより癒すことを主眼にしていってほしい
 
ママの感情だって受けとめてもらえることで安心して手放せることができるものだから
 
いつからでもいつまででも可能なこと
 
 
 
 
 
 
「みゆきは単純すぎ!に反論してみる」
 
 
 
だいたい感情などというものは
その人の認知に大きく影響を受けているものだから
 
極論言ってしまえば
現実には、あってないものようなもの💧
 
 
と、ここまで言ってみて....
逆のことを言ってみる
 
 
もちろん感情はすっごく大切なもので
 
これを感じることができない人は、必ずと言っていいほど
生きづらさを抱えていたり、体が自己表現して病気にしてくれたりする
 
そうでなくて、感情なんていらないさ!無駄なものさ!と言葉にしている時点で
実は感情がものすごく気になっていたりするから
 
 
まったく人間というやつは面倒な生き物(そして愛すべき生き物)だなと思う❤️
 
 
だからこそ
自分の気持ちというのは理解して、抱きしめてあげて、なだめてあげることに大きな意味があるものです❤️
 
 
大切にしろと言いつつも
 
今目の前の人が、ムカッとしているからと
そこを間に受けるのは間違いの元
 
それは自分の感情ではなく目に見えているだけの相手の感情で
本物かどうかは実に怪しい
 
だって自動思考はどんどん流れているものだからね❗️
 
それに何にムカッとしているかだって、分からないもの
 
 
 
それを何度も何度も忘れないようにと
同じ自動思考を繰り返し想起し
自身を苦しくさせているのは、生きるのが苦しくなるのではないだろうか?
 
 
私も、題名にあるように
さっき怒ったくせに
 
美味しいものが目の前に出た途端(話題だけでも)
ニコニコするのは自分に責任を持っていないのではないかと
いうような空気を感じて(言われたのではなく、あくまで空気)
 
反論してみようと思ったわけだ。
 
だいたい
ムカッとした気持ちは大きいのでそこに呑まれるが常だが
実はよーく感じてみると
 
他の感情も現れているのが普通だと思う(それが全く現れない人もいるが、社会で何事もなく過ごしていることを願う限りです)
 
 
何か言われてムカッとした、💢
 
その下には、ちょっと相手に悪かったかなとか、
 
この人疲れてるのかなとか、
 
私もちゃんと伝えなかったよなとか、
 
あーいつものことだわとか、もう関わらないようにしようとか、
 
まぁ様々な自動思考がこれまた出てきているのが通常
 
 
そんな様々な自動思考に気づけると
自分の方向性に選択肢が持てるというか
余裕が出てくる
 
 
これしかない、この感情が全てと思うほどに
怒りや絶望は強くなり、関係悪化をたどりやすいと思います
 
 
 
怒りながら、関わらないという選択肢を持てなければ、ずっとそばにいながら怒り続けることになるし
 
怒りながらも悪かったなという気持ちを持てなければ、相手を許す気持ちも生まれないです
 
 
なので私は
単純で何も考えていないように思われることがありますが
単純な中にはいろいろな思いがあること理解して欲しいですね
 
 
自分の中から湧き出た素直な気持ちを味わいながら
誰とどう関わっていくかを考えていくことが大切だと思っています
 
 
そして認知の癖は変えることができるものです‼️
 
 
慣れ親しんだ考え方というのは、とかく表面上に浮かんできやすい。あたりまえです。
慣れ親しんでいるのですから。
 
 
しかし
今どう反応するかは自分で選ぶことができるという意味で
多彩な可能性があるので
あってないようなものという表現を本日はしてみました。
 
 
もちろんあえて呑まれる選択肢だってあるわけ
一人飲みたい夜があるようにね🍺
 
 

マインドフルネスは

最近あちこちで聞かれるようになってきましたからご存知な方も多いことでしょう。

 

体験系と思考系のワークがあるのですが

私自身セミナーで実際やってみているのが体験系ワークです。

 

みなさん、普段何かを食べる時にはほぼ無意識に口に運んでいますから

何かを感じることは少ないように思いますが

これを意識的にすることで豊かな世界が広がるのも事実です。

 

みなさんも「中華屋のもやし炒めが食べたい」と思えば、ごま油の風味や塩加減、シャキシャキとしたもやしの食感や皿に残った、油と水分が混ざった汁を思い浮かべるのではないでしょうか?

それを食べる時にも実際に改めて感じ、よく味わってみることがワークになります。

ワークですので、最低でも10分くらいかけて一口をじっくり味わっていくのですが

今読んでいる本に面白い事例が載っていたのでご紹介です。

➖「マインドフルネス&スキーマ療法」伊藤絵美著➖

 

「嫌悪刺激に対するマインドフルネスのトレーニング」です。

つまりどういうことかと言いますと

嫌いなものに対して、マインドフルになってみよう

という体験です。

実は私これを読んでいて思ったのですが

嫌悪刺激に対して心を開くということは、結構得意だなと

 

この書籍では、「くさや」を味わう。発泡スチロールを爪でギーッとひっかく。強烈に酸っぱい黒酢を飲む。ゴカイ(釣りの餌のミミズ様の生き物)をひっぱたりちぎったりする。頭痛などの痛みにマインドフルになってみる。

 

このどれもいけそうです。

体調に対しても、マインドフルにしていると、安易に薬で紛らわすことがなくなります。自分の体の変化に、とっても敏感だと私自身感じています。

同じ様に感情の変化にも敏感なので、ときに巻き込まれそうにもなります。

その対処も今はずいぶん上手になってきました。(これはゲシュタルト療法のおかげも大きいです)

実感があるからこそ、クライエントさんにもマインドフルに接することができるわけですね。

 

マインドフルに様々なものと触れ合っていくことは、自分自身に嘘をつかないということです。

自分の感情をごまかしたり、我慢したり、溜めたり、それで時に爆発したりしないということです。

 

「それじゃあ家族とケンカしちゃうよ〜」

本当でしょうか?

 

本音というのは、「全くあいつはダメだ」という一面だけでしょうか?(ケンカは相手を否定することで起きがちです)

あなた自身の思いをもう一度見つめ直してみてね。

 

この本にも書かれていますが

マインドフルというのは「自分を大切にする第一歩」なのです。

自分の体験をじっくり味わうことは、自分を知ることです。

 

人は興味ある人に対しては、知るほどに親しみを持つものです。

自分に心の底から興味のない人はいませんから(表面的にどうであっても)

自分を知っていくことは、より自分に親しみを持つ、つまり好きになっていく過程なのですね。

 

なかなか本を読んだだけで、セルフで実践は難しいものですが

やってみる価値は大いにあると思います。

もちろんセッションもお受けいたします。

 



バット・バルマー著「怒ろう」より

今はアンガーマネジメントが盛んで
怒りを鎮めることが盛んですが

怒りも実は必要な感情で
これがあるからこそ自分を守ることができるのです


しかし問題は怒りに「支配」されること


ではなぜ怒りに支配されるのか?

それは怒りを認めていないから


そしてその感情はいけないと自分の奥底に抑圧するほどに
怒りは貴方をいじめる


(もっと私に気づいて!)と。


そういうとき、ふとしたきっかけで怒りは暴走する
もう自分では止められないほどに。。。


日常の中でも怒りは意地悪をします

貴方の大切な人に自分でも思っていない方向に自分を連れて行きます

貴方の気持ちをねじ曲げ、結果貴方を悲しませます


でもそれは仕方のないこと
心はこう叫んでいます「私に気づいて!」


私は今、
怒りを良いお友達にしようとしています
怒りは私を守ってくれるから


少しおかしく聞こえるかもしれませんが、怒りをコントロール下に置いておくことはとても大切なことです


大切な人をネチネチいじめないために
そして自分の未来を間違った方向に持っていかさないために



そのためにどうするのか
私は怒りを言葉で表現します

この本にも同じ方法が書かれていました

「あーあんなことされて私怒ってるんだね」
信用できる友人にも
「こんな目にあって私怒ってるんだ」と話します
相手を責めるのではなく、自分の怒りを表現することで友人も話を聞いてくれやすくなります


そうして少しずつ怒りを手放します
話すことで手放されていくといった表現の方が正しいでしょうか

しかし怒りが強く根を下ろしている方ですと表現するほどに次から次へと怒りが出てきてしまう方もいます
そんな時にはどうするか

どうしてそんなに怒りが湧いてくるのか
あなたの心の奥底を覗いてみることをお勧めします

でも簡単ではないんだよね
それが怖くて怒りでごまかしてきたのだもの


あなた自身のために愛するもののために
そして未来のために
奥底を覗く勇気を持ちませんか



よく感じることなのだけど
自分を好きでない人は他人も好きになれないって思う


自分を好きでないってことは、好きな自分になれていないからだと思うんだ


つまり自分の許容範囲に自分がいないから好きになれないし
そんな自分に怒りや悲しみを持ってしまう


でもそんな風に自分を追い詰めている人は
必ず他人にも厳しい態度を示します


人は誰でも自分が可愛いから

心の奥底では自分が好きだから
なのにそんな自分を好きになれない

ならそのハードルを上げてしまおうって思うのです
当たり前の気持ちです


だから結果他人への目が厳しくなるのです
そうしなければ自分を責めすぎて病気になってしまいますしね


怒りを奥底にしまうのではなく
怒りを認めていく、怒りの根っこを見つめていく、それが正しい処方箋

愛する人を傷つけないために
あなたを慈しむために

変えようと思ったその時から人生は新たな道を歩み始めます

 

人は常にいろいろなことに気づいて生きています

例えば朝起きて「お腹が空いた」ことに気づき それを満たすための行動を起こします

 

 

生きていると「あっ、これはこういうことなんだ」と妙に腑に落ちることがありますが

それはまさに気づきです

そして 自分の心にマインドフルになっていると 気づきが気づきを呼ぶことがあります

 

それは例えば

自分の中に葛藤が起きた時

思いもよらない言葉を返された時

ありえない、そんな気持ちになった時

 

つまり心が抵抗するような時に 自分の心に寄り添えると いろいろな変化を読み取れます

最初は

絶望感、かもしれません

理解されない悲しみなのかもしれません

そういう感情を感じたくないために

押し込めている方は非常に多いですが

そんな傷ついた自分に丁寧に寄り添ってあげると 心はさらに変化をしていきます

 

大切なのは

そんなことを感じるはずはないと抵抗したり

そんなことは認められないと蓋をしてなかったことにしたり

自分は悪くないと責任を他人に転嫁したり

しないこと

 

自分の中で起きていることをしっかり認め受け入れてあげることこそが大切なことなのです

 

不思議なもので

感覚というのは、感じてあげることで変化していくものです

 

最初にかかれた図があります

これは地と図の関係です

だまし絵を見たことがある方は多いでしょう

この絵は一度に二つの絵を人は見ることはできないことを表現していますが

壺を見ている時には人の顔を認識することはできません

その逆もしかりです

それは思考や感覚にも言えることで

ある感覚をじっくり感じていると時間の流れとともにその感覚は弱まり

次の感覚(それは人によって違うものです)に意識が向きます

ここの例でいえば

腰痛を感じている人がその感覚をじっくり味わうと

腰痛という認識から痛みということを強く感じるようになり

さらにはそのことによって辛いという「辛さ」に意識が移行していきます

 

通常こういったことを私たちは漠然としているので

「みんな一緒くたに感じているんじゃないのかな?」

と思いがちですが

瞬間的に意識は一つにしか向きませんので

いろいろなものを感じているという方は

次々に意識を変化させているというのが正しいのです

気持ちも同じで

「辛く悲しく苦しい出来事」というのも

その瞬間は、「辛い」であり

ある瞬間は「悲しい」であり

また「苦しい」なのです

もちろんそれは喜びの感覚でも同じことです

そしてそのように自分の意識にじっくり向き合っていると

例えばある時は

幼かった自分が味わった辛さを腰痛が表現していることに気づくこともありますし

このところ自分を省みずにいじめつけるように活動していたことに気づくのかもしれません

何に気づくかは人それぞれなのですが

 

そこで何かに気づくことが重要なのです

それはほんの些細なことであっても、「あぁそうだった」という体験は人生にとってかけがえのないものになっていきます

 

私は日常の感覚がこの繰り返しなので

先日「そんな風に自分を深掘りしないように」と言われたのですが

それは深掘りしているのではなく

流れている感覚に正直にあり続けているだけなのです

 

でも世の中は

感情にフォーカスすることに慣れていないので

私のやっていることは他人から見たら、非生産的なことなのかもしれないですし

気持ちにばかり向き合うことは

何か私が弱くなるように感じるのかもしれません

 

実はその逆で

向き合うことで生きる意味を都度確認し

自分の中にある強さや弱さを慈しむ経験なのですが。

意識は流れている

そしてその感覚はまぎれもない自分個人のことなのだと。

 

そして不思議とその感覚を同じように感じている別の個人と共有できると

それは人と人との間に流れる優しさや愛おしさ、慈しみといった感情につながっていきます

人は人と繋がれるといった感覚です

そんな体験をあなたにも味わって欲しいと思っています

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



先日所属している団体から定期冊子が届けられ
そこには人工知能によって、統計的尺度から見つけられた人々のハピネス度について書かれていました。

現代はなんでも効率優先の時代で
効率に見合わないものは、「仕分け」「無駄」という名の下に切り捨てられましたが
実はそうではないことを人工知能は教えてくれている気がします。

〜〜〜〜
 コールセンターに勤める従業員に名札型ウェアラブル(人工知能)端末を装着しコ
ミュニケーションをとった時刻、場所、名札の揺れのパターンを記憶した結果、
売上実績のある社員の出欠が売上変動に影響を与えていると考えられていたが
実はそうではなかった。

業績と強い相関関係を持っていたのは、
従業員の活性度(体の動き)を高める人物の出欠でした。

その人物がいるのといないのとでは売上に34パーセントもの違いが見られた。
ただしその個人の営業成績がいいかというと必ずしもそうではなく、
雰囲気を良くすることで、周りに業績を出させるムードメーカー。

しかも休憩時にそのムードメーカーを中心とし雑談が盛り上がったかが
1日の業務の生産性に大きく関わっていた。
(記事にはありませんでしたが、コールセンターは女性が多い職場というのも大きく影響しているとは思います。)

〜〜〜
さらに御年84歳の師匠もよくこう言っていることを思い出します。

「今は結果を出せない人はダメだという風潮があるけれど
人にはそれぞれ役割があって、名プレーヤーが名マネージャーになれるかというとそうではなく

仕事が出来る出来ないで上司の役割を与えるのではなく、
人の話を聴ける人を上司にした方が組織はきっとよくなる」
といった趣旨の話をしていました。

まぁ現代はマネージャー職だけをやっていればいいわけではなく、プレーヤーも同時に要求されているから
どこまで食い尽くすんだろうといった感は否めませんが。。。。

さらに組織の幸福度としては。

幸福の尺度
体の三次元の動きと向きを測定、記録する加速度センサーを使い、
7社、10組織、計468人のオフィスワーカーから延べ5000日、約50億点の加速度データを集めた。

そこに質問紙を組み合わせ、どのような動きが組織としての幸福度を高めるのかを分析した。

すると動きの多様性が幸福度と強い相関関係を示していることを発見した。
さらにハピネス度が高い企業では、企業としての生産性も高いことも分かった。

さらにプロジェクト開始後たった2ヶ月時にハピネス度が高かった組織は、そのプロジェクト自体も成功しているというのです。

まぁ考えてみれば当たり前で、意欲を持ってハツラツとそのプロジェクトに取り組んでいるということは
目標もはっきりとそれぞれが見渡せ、意欲を持って取り組んでいるということですから
成功しないわけがありませんよね。

最後に記事はこう締めています。

「体は感覚器などの情報をインプットする機能がたくさんある。

でもアウトプットする機能は筋肉の動きしかない。
あえて言うならホルモンや酵素の分泌でしょうか。

とはいえメインは筋肉の動き。

その意味で脳だけが重要視される方向は間違っていると思います。」


人工知能という最先端の技術が教えてくれる
人はロボットではないという方向性に救われる思いです。

個人的には
アウトプットするのは筋肉の動きしかないというところにも注目をしていて

私たちがしている療法の中には

「筋肉は感情の鎧」という言葉があります。

「いやだ」と思えば、筋肉が硬直するといったように
感情を筋肉が表している一面があります。

しかし「いやだ」と思うことはいけないことと教わってきているので
例えば体のコリ、痛みなどで感情を抑制するのです。

「本当か?」と思われるかもしれませんが
私も実体験していますから本当です。

自身の真実を知ることを人は恐れますが
本当は違います。
知った上で、どうするかを改めて考え今にとどまるという選択肢もあるのです。

しかし知らなければ
痛み状況に翻弄されるしかありません。

人工知能というハイテク機器が
人間の基本的な姿を見せてくれたことに感謝したい思いです。









ゲシュタルト療法では、自己成長のプロセスを下記のように捉えています。

何をもって「成長」とするかは人それぞれの考え方があると思いますが
「真の自分に気づく」ということをここでは大切にしています。

人は自分自身である時、
余計なおせっかいをしたりしません。
他人に対してその人はその人なりの考え方があると相手の存在を認めます。
自分のわがままさや怒りや悲しみも喜びと同じように大切なものとして扱っていきます。
そして
自分のとらわれから自由になっていきます。




さらに噛み砕いた説明がこちら